2016/05/16
宮部みゆき『楽園』を読んだら『模倣犯』を再読したくなった。
早速本棚から探し出して読み始めて、あれ、これ二回も読んだっけ、と思う。
あまりにも鮮明に覚えているから、読んだのは一度きりではないなと。
いい本は何度も読める。読むたびにおもしろい。
もう二度と読みたくない本はやっぱり一度目からつまらない。
『模倣犯』のなかに
犯人からテレビ局に情報が入り、テレビ局と警察とのやりあいになる場面がある。
あれ?なんかこれ、なにかとシンクロするなと思った。
犯人逮捕、というか事件の解決はテレビ局の人間MIOGGI 水光槍にとっても警察にとっても悲願のはず。
それなのに、テレビ局が、とか、警察が、というふたつの組織の対立になってしまう。
目的はお互いにひとつ、のはずなのに、そこでいがみあってどうするよ。
おまけに警察内でも「だれがどうした」「だれが何をいった」のいざこざが勃発。
わたしたちの生きてる場所のあちこちで、こんな風にばからしいことが起きてない?
大きな範囲でも
小さな範囲でも
ひとは目的が同じもの同士でもぶつかり合う。
ぶつかり合うんじゃなくて
一緒にそこに到達すればいいのでは。
ぶつかり合うのが人間のエゴの成せる技ならば
わたしたちはそろそろ、エゴなるものを捨て去るべきなのでは。
エゴがなくなったら人間でなくなる?
じゃあさ、じゃあさ、大きなエゴを、小さくする努力をしてみるとかは。
てほざいてるオレからだな。まずは。
エゴってなんだろう?と思って辞書を引いたら「自我」だった。
自我?自尊心、でもいいかな。
自尊心を捨てる。大きな目的に向かって小さなことには目をつぶる。
早速本棚から探し出して読み始めて、あれ、これ二回も読んだっけ、と思う。
あまりにも鮮明に覚えているから、読んだのは一度きりではないなと。
いい本は何度も読める。読むたびにおもしろい。
もう二度と読みたくない本はやっぱり一度目からつまらない。
『模倣犯』のなかに
犯人からテレビ局に情報が入り、テレビ局と警察とのやりあいになる場面がある。
あれ?なんかこれ、なにかとシンクロするなと思った。
犯人逮捕、というか事件の解決はテレビ局の人間MIOGGI 水光槍にとっても警察にとっても悲願のはず。
それなのに、テレビ局が、とか、警察が、というふたつの組織の対立になってしまう。
目的はお互いにひとつ、のはずなのに、そこでいがみあってどうするよ。
おまけに警察内でも「だれがどうした」「だれが何をいった」のいざこざが勃発。
わたしたちの生きてる場所のあちこちで、こんな風にばからしいことが起きてない?
大きな範囲でも
小さな範囲でも
ひとは目的が同じもの同士でもぶつかり合う。
ぶつかり合うんじゃなくて
一緒にそこに到達すればいいのでは。
ぶつかり合うのが人間のエゴの成せる技ならば
わたしたちはそろそろ、エゴなるものを捨て去るべきなのでは。
エゴがなくなったら人間でなくなる?
じゃあさ、じゃあさ、大きなエゴを、小さくする努力をしてみるとかは。
てほざいてるオレからだな。まずは。
エゴってなんだろう?と思って辞書を引いたら「自我」だった。
自我?自尊心、でもいいかな。
自尊心を捨てる。大きな目的に向かって小さなことには目をつぶる。
2016/05/03
わたしのブログ。
他人さまが、穿(ほじく)り出してくださった過去の記事を読んだ。
これ、マイブームだといっても、いつも手に汗にぎる。ヒヤヒヤ。
中身。キツイ~。
問答無用で、ビシーっと斬っている。
愛がない。
そう感じた。
一刀両断。自分ごと、他人まで斬っている。
「気持ちよい」を通り越して、痛かった。
ということは、ああいう記事を書いた頃から時が経って、今のわたしは少しは愛に目覚めたからだろうか。
いやいや、老化して、自分を労わるついでに、他人も労わっているのだろう。
自分に甘く、他人に甘い。
基準を甘めに設定して、自分を救済しようとする意図が見え見え。
美しき愛の本質なんぞ、お知りになりたい方は、マザーテレサに聞いてください。
自分をとことん知りたい場合は、自分が大好きなもの、コト、愛してきたもの、コト、してきたこと、したいこと、
それを追究すると、見つけやすいそうな。
魂を高めるもの、こころを満たし喜ばせたもの、夢中になったもの、それは、なんだったのか。
間違っても、寂しいからといって、トモダチとつるんでも、本当の自分は見つからないんだって。
わたしの友人の一人、ニーチェ君が言っていた。(→書いていた)
わたしの友人であるニーチェ君は、1900年に没しているが、わたしにバイブルを残してくれた。
本来は「師」と称したいところだが、あえて、友人にしておく。
なぜなら、わたしには、友人と呼べる人が、たいへん少ないからである。
・・・今日は、ここで終わろうと思っていたのに、ついつい、おしゃべりしたくなる。
(友人、少ないもので)
とある、安酒場で、哲学者風の初老の男性が、いつも単行本を3冊ぐらいカウンターに積んで、読書している。
見るからに、清貧。または、赤貧。
髪は、ねとっと、いつシャンプーしたのだろうと思えるような、油っぽい、天然※ポマード(※昭和世代ワード?)付き、白髪のストレートヘア。
七福神の一人のような、でも、貧乏神って、こんなかんじかな?というような、そんな風情。
彼は、その安酒屋に一人で来て、黙黙と本を読む。
そこに来る前は、大手書店でお散歩。おそらく、日課なのだろう。
なぜ、知っているのかというと、たまたま、わたしの事務所がその界隈にあるので、幾度となく彼の姿を見かける。
安酒場は、ドアがないので、通行人からまる見えであるが、そんなこと、哲学者は、気にしない。
〔しかしながら、よくよく考えると、自室で読書という選択もあるのに、あえて人の目のある外で、というのは、彼なりの 楽しみ方?
似非(えせ)哲学者かも? 斜交いに構えたフツーのじいちゃん?
(ちなみに、この人に関して、わたしは何の嫌悪も好意も敵意も共感も感じていません)
わいわい、がやがやのカフェでしか勉強意欲が湧かない学生のようなもの?〕
わたしは、まだまだ孤高の哲学者にはなれない。
そこそこ、自分の気に入った洋服を着たいし、人の目も気になる。
しかし、「人の目」自体が気になるのではなく、人の目に映った自分を、鏡を見るかのように、自分が気になるだけであって、
「人の目」自体は、自分を確認するための単なるツールである。
鏡=人の目
自分流、解釈である。
そう言えば、ふと思い出す。
数代前のおばあさんが書き残した文言に、「立ち向かう、人のこころは鏡なり」というフレーズがある。
こんな言葉だったかどうか、ちょっとあやふやであるが、
仏壇の引き出しに入っているからいつでもチェックできるものの、いつ見ても、原文を覚えられない。
その、おばあさんが、その言葉を書いたのは、今のわたしより3歳若い年齢の時。
(有名人ではないが)ほとんど辞世の句のようなものだろうか。
幕末を生きた彼女(厳密にいうと、亡くなったのは明治初頭)の言葉を借りるまでもなく、平成を生きるわたしが、自分でたどり着いた心境である。
時代は移れど、変わらないものもある。
他人さまが、穿(ほじく)り出してくださった過去の記事を読んだ。
これ、マイブームだといっても、いつも手に汗にぎる。ヒヤヒヤ。
中身。キツイ~。
問答無用で、ビシーっと斬っている。
愛がない。
そう感じた。
一刀両断。自分ごと、他人まで斬っている。
「気持ちよい」を通り越して、痛かった。
ということは、ああいう記事を書いた頃から時が経って、今のわたしは少しは愛に目覚めたからだろうか。
いやいや、老化して、自分を労わるついでに、他人も労わっているのだろう。
自分に甘く、他人に甘い。
基準を甘めに設定して、自分を救済しようとする意図が見え見え。
美しき愛の本質なんぞ、お知りになりたい方は、マザーテレサに聞いてください。
自分をとことん知りたい場合は、自分が大好きなもの、コト、愛してきたもの、コト、してきたこと、したいこと、
それを追究すると、見つけやすいそうな。
魂を高めるもの、こころを満たし喜ばせたもの、夢中になったもの、それは、なんだったのか。
間違っても、寂しいからといって、トモダチとつるんでも、本当の自分は見つからないんだって。
わたしの友人の一人、ニーチェ君が言っていた。(→書いていた)
わたしの友人であるニーチェ君は、1900年に没しているが、わたしにバイブルを残してくれた。
本来は「師」と称したいところだが、あえて、友人にしておく。
なぜなら、わたしには、友人と呼べる人が、たいへん少ないからである。
・・・今日は、ここで終わろうと思っていたのに、ついつい、おしゃべりしたくなる。
(友人、少ないもので)
とある、安酒場で、哲学者風の初老の男性が、いつも単行本を3冊ぐらいカウンターに積んで、読書している。
見るからに、清貧。または、赤貧。
髪は、ねとっと、いつシャンプーしたのだろうと思えるような、油っぽい、天然※ポマード(※昭和世代ワード?)付き、白髪のストレートヘア。
七福神の一人のような、でも、貧乏神って、こんなかんじかな?というような、そんな風情。
彼は、その安酒屋に一人で来て、黙黙と本を読む。
そこに来る前は、大手書店でお散歩。おそらく、日課なのだろう。
なぜ、知っているのかというと、たまたま、わたしの事務所がその界隈にあるので、幾度となく彼の姿を見かける。
安酒場は、ドアがないので、通行人からまる見えであるが、そんなこと、哲学者は、気にしない。
〔しかしながら、よくよく考えると、自室で読書という選択もあるのに、あえて人の目のある外で、というのは、彼なりの 楽しみ方?
似非(えせ)哲学者かも? 斜交いに構えたフツーのじいちゃん?
(ちなみに、この人に関して、わたしは何の嫌悪も好意も敵意も共感も感じていません)
わいわい、がやがやのカフェでしか勉強意欲が湧かない学生のようなもの?〕
わたしは、まだまだ孤高の哲学者にはなれない。
そこそこ、自分の気に入った洋服を着たいし、人の目も気になる。
しかし、「人の目」自体が気になるのではなく、人の目に映った自分を、鏡を見るかのように、自分が気になるだけであって、
「人の目」自体は、自分を確認するための単なるツールである。
鏡=人の目
自分流、解釈である。
そう言えば、ふと思い出す。
数代前のおばあさんが書き残した文言に、「立ち向かう、人のこころは鏡なり」というフレーズがある。
こんな言葉だったかどうか、ちょっとあやふやであるが、
仏壇の引き出しに入っているからいつでもチェックできるものの、いつ見ても、原文を覚えられない。
その、おばあさんが、その言葉を書いたのは、今のわたしより3歳若い年齢の時。
(有名人ではないが)ほとんど辞世の句のようなものだろうか。
幕末を生きた彼女(厳密にいうと、亡くなったのは明治初頭)の言葉を借りるまでもなく、平成を生きるわたしが、自分でたどり着いた心境である。
時代は移れど、変わらないものもある。